フランス人と生野鉱山   


日本を近代化するために大量の金銀が必要な明治政府は、強権を持って奪った生野銀山に、
フランス人を雇い入れ 官営鉱山として当時あった最新鋭の大量生産方式を取り入れ経営に乗り出します。

ドゥニ・セヴォズ(1836〜1896)

 雇入 年給 洋銀6,840枚(円) 
 生野在勤 明治3年2月〜明治4年10月 
 在任期間 1年8か月 

 コアニェ氏の一年後輩。サン・テチェンヌ鉱山学校1865年卒業した12人
 の中の一人。金蔵寺に居住し分析所を作り鉱石の調査・分析を行う。
 鉱山器械所・水路の建設など鉱山と精錬工場の近代化に努め
 生野鉱山学校設立に大きな役割を果たした。
この鉱山学校の卒業生は15名で 卒業生と思われる人物が4名確認されている。
 
*セヴォースは日本人妻との間に息子(ルイ・セヴォス)をもうけるが、明治4年の焼き討ち事件をきっかけに
 生野を去っています。
 残された子供は帰国まではコアニェ夫妻が引き取り、その後加藤家に引き取られますが 若くして生野から
 姿を消してしまいます。。
 


ポール・レムル(製鉱師・銅鉱師)

 雇入 月給 120円 
 生野在勤 明治6年1月〜明治13年4月 
 在任期間 7年3ヶ月 

町内の本行寺に「明治10年10月5日 レルモボリムスメ」の
墓石がある。母親は本行寺に縁故の日本人だったのではと思われれる。 
写真の特定できず。 エミル・テオフィール・ムーシェ(1845〜1895)
 技術工師・鉱山師・土質家
 雇入 年給 洋銀7,200枚(コアニェ帰国後は年給 洋銀8,400枚) 
 生野在勤 明治4年12月〜明治13年4月 
 在任期間 8年5ヶ月 

コァニェ氏の一年後輩、サン・テチェンヌ鉱山学校1865年卒業。
金蔵寺で鉱石の分析や焼失後の鉱山器械所の再建に取り組む。 
明治5年  竜野の闘竜灘の水路をわずか60日で約150m掘り開いた 
明治8年  三井炭鉱疎水計画を立てる。
明治11年 日本中をめぐり 鉱山計画をたてる。 
レピケ・ラミー(鍛冶職)

 雇入 月給 150円 
 生野在勤 明治9年9月〜明治12年4月 
 在任期間 2年7ヶ月 


シャルル・ブードゥー(機械師)

 雇入 月給 200円 
 生野在勤 明治11年4月〜明治14年6月 
 在任期間 3年2ヶ月 



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