時 期 |
事 柄 |
第二次
長州征伐 |
長州征伐に来た幕府軍相手に芸州口の激戦で御槍隊を指揮し、大島沖では砲手として
戦い数倍の幕府軍を撃退した。
この戦いでは 長州軍の正規軍ではなく奇兵隊が圧倒的に強かった。
そして高杉晋作が亡くなる時に、後に生野の変で亡くなった二代河上弥一の次の隊長に
山田顕義を指名。700名、八中隊騎兵隊の総指揮官に若干23歳でなる。 |
鳥羽伏見
の戦い |
西郷隆盛率いる薩摩軍5000人とともに、長州軍700人余りを率い
幕府軍15000人との戦いに参戦。
長州軍は寡兵ながら圧勝し西郷隆盛に「あの小童、用兵の天才」と言わしめ、討幕後
征討総監督副参謀に抜擢される。 |
北越での
戦い |
海軍参謀として日本で初めて上陸作戦を成功させた。 |
函館
五稜郭の
戦い |
陸軍参謀 実質は最高司令官として戦いを短期に終わらせ兵乱を終わらせた。 |
明治4年
1871 |
安政に結ばれた不平等条約改正を目的として 岩倉欧米使節団が派遣され理事官として随行する。
しかし 相手国に憲法もない野蛮な国として、改正どころか無視される。
この事により近代軍制改革の視察を目的として随行していた山田は、今一番の急務は憲法の制定であることを思い知らされます。 |
明治6年
1873 |
帰国後 奇兵隊解散時に多大な犠牲を払ったことに懲りたのか?山縣有朋の徴兵制度に時期尚早として反対し軍を去ります。 |
明治7年
1874 |
「軍事力より法律が大切」と考えて、司法大輔に就任し学生に混じって猛勉強をする。
2〜3年もたたないうちに法律に精通し 司法卿になる。 |
明治10年
西南戦争 |
敗色濃厚な政府軍に請われ指揮をとり薩摩軍を打ち破る。
しかし再び軍に留まることはなく内務卿を経て司法省に戻る。 |
明治18年 |
第一次伊藤内閣司法大臣に就任。
刑法・商法・民法を編纂、悲願の条約改正に着手する。 |
明治22年 |
憲法発布。日本は やっと法治国家の道を歩み始める。
後に教育の重要性を認識している彼は「日本法律専門学校」(現日本大学)や
「皇典講究所」(現国学院大学)を創立。
日本の心を失わない西洋文化の導入、近代化を考えました。 |