山田顕義と生野町 
                                                                                  
     

生い立ち                           

和暦  西 暦  詳          細         
 弘化元年  1844 長州藩士山田七兵衛顕行の嫡子として 山口県萩市に生まれる。
幼名は「市之充」と言い 幼少期より「藩校明倫館」や「松下村塾」で学ぶ。
又兵学は 大村益次郎の教えを受ける。
逸話として・・・幼少期に木の上よりおしっこをする等 なかなかのやんちゃ坊主だったようだ。
 文久3年 1863 長州藩一藩のみ攘夷を実行し、市之充は藩の洋式軍艦に乗り込み戦う。
しかし 英・仏・蘭・米の4ケ国連合軍の反撃にあい敗れる。
市之充18歳の時の出来事である。

功 績                            

時 期 事         柄           
 第二次
長州征伐 
長州征伐に来た幕府軍相手に芸州口の激戦で御槍隊を指揮し、大島沖では砲手として
戦い数倍の幕府軍を撃退した。
この戦いでは 長州軍の正規軍ではなく奇兵隊が圧倒的に強かった。
そして高杉晋作が亡くなる時に、後に生野の変で亡くなった二代河上弥一の次の隊長に
山田顕義を指名。700名、八中隊騎兵隊の総指揮官に若干23歳でなる。
鳥羽伏見
の戦い
西郷隆盛率いる薩摩軍5000人とともに、長州軍700人余りを率い
幕府軍15000人との戦いに参戦。
長州軍は寡兵ながら圧勝し西郷隆盛に「あの小童、用兵の天才」と言わしめ、討幕後
征討総監督副参謀に抜擢される。
北越での
戦い
海軍参謀として日本で初めて上陸作戦を成功させた。
函館
五稜郭の
戦い
陸軍参謀 実質は最高司令官として戦いを短期に終わらせ兵乱を終わらせた。
明治4年
1871
安政に結ばれた不平等条約改正を目的として 岩倉欧米使節団が派遣され理事官として随行する。
しかし 相手国に憲法もない野蛮な国として、改正どころか無視される。
この事により近代軍制改革の視察を目的として随行していた山田は、今一番の急務は憲法の制定であることを思い知らされます。
明治6年
1873
帰国後 奇兵隊解散時に多大な犠牲を払ったことに懲りたのか?山縣有朋の徴兵制度に時期尚早として反対し軍を去ります。
明治7年
1874
「軍事力より法律が大切」と考えて、司法大輔に就任し学生に混じって猛勉強をする。
2〜3年もたたないうちに法律に精通し 司法卿になる。
明治10年
西南戦争
敗色濃厚な政府軍に請われ指揮をとり薩摩軍を打ち破る。
しかし再び軍に留まることはなく内務卿を経て司法省に戻る。
明治18年 第一次伊藤内閣司法大臣に就任。
刑法・商法・民法を編纂、悲願の条約改正に着手する。
明治22年 憲法発布。日本は やっと法治国家の道を歩み始める。
後に教育の重要性を認識している彼は「日本法律専門学校」(現日本大学)や
「皇典講究所」(現国学院大学)を創立。
   本の心を失わない西洋文化の導入、近代化を考えました。

生野との関連                                                               

関連事項 詳        細        
南 八郎

生野の変
生野の変で朝来の山口妙見山下で亡くなった南八郎(実名 長州藩士河上繁義弥市)は
天保14年(1843)正月生まれで、山田顕義とは又従兄であり遊び友達でした。
文久3年10月大和義挙を応援すべく脱藩して七卿落ちの一人「澤」卿を奉じ生野陣屋を占拠するも破れ 同志17名と共に山口妙見山下で自決(享年21歳)
慶応4年山陰鎮撫軍総督西園寺公望率いる長州隊長として、山田は生野の地を
踏みますがすぐに転戦となります。
西園寺公望の「殉節忠士之墓」と折田要蔵(府中裁判所判事・・生野の変)の
「殉節忠士之墓誌」の碑石とが朝来の護国神社に、山田顕義の追悼の碑石が萩・長寿寺にあります。
生野銀山 最初生野銀山は薩摩が支配していましたが、文久3年の薩英戦争で英国の実力を知った薩摩は 親仏から親英となり生野から手を引きます。
その後長州が薩摩に代わって 兵庫県知事伊藤博文が初代工部卿となり、2代井上聞多、3代山田顕義、4代、5代と長州人が世界一と言われる生野製鉱所建設をバックアップしたのは 生野の変で多数の犠牲者を出した思いからでしょう。
明治9年生野製鉱所完成時に その祝宴の料亭「柴撰」での伊藤博文はじめ長州出身の政府高官の喜びの騒ぎが今に伝えられているのが何よりの証しと言えるでしょう。
終焉の地  法律作成に多年取組フランス式民法を推進するもイギリス式を押す法学者会の激しい抵抗にあい、又度重なる法典作成の無理から結核を患う。
しかし山縣・松方内閣でも司法大臣を留任、明治24年司法権の独立を守った大津事件を期に大臣を辞職。
同年25年萩に遊び、11月11日維新の成功を見ずに散った又従兄の河上弥市はじめ
同志の墓参りに山口妙見山下を訪れ、ついで生野銀山を訪れた際 太盛3番立抗(東京大学資料によれば
30℃の傾斜抗)内で倒れ帰らぬ人となります。

 「同志多く死を持って殉じ、維新の成功の基、実にここに胚胎す。
  その言語動作、洸然として心目にあり 今昔の感にたえざるなり。」

 

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